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Friday, August 22, 2014

来年米国で出版予定:二人の熱帯病専門家による『モクター事件:1942-45 日本占領下インドネシアにおける医療殺人』The Mochtar Affair: Murder by Medicine in Japanese Occupied Indonesia 1942 – 1945

8月15日、田中利幸・広島市立大平和研究所教授による被爆者・沼田鈴子さん(故人)についての講演ノートを投稿しましたが、引き続き、田中氏がメーリングリストで日本の「8月ジャーナリズム」における「自分たちの被害にだけ焦点を当て」る傾向を批判した一文を掲載します。そこには、戦時日本軍がインドネシアで強制労働させた「ロームシャ」に対して行った破傷風ワクチン人体実験と、日本軍がその罪を現地の専門家になすりつけた「モクター事件」について二人の熱帯病専門家による本が出版される予定で、田中氏が出版前にその推薦文を依頼されたという重要な記述がありました。ブログ運営者はちょうど数日前シンガポール国立博物館にて、インドネシアの「ロームシャ」がマレイ半島など他の日本占領地域にも大量に動員され多数が死んだという記述を見てショックを受けていたということもあり、田中氏のメールを見てぜひ掲載したいと思い、許可を得ました。@PeacePhilosophy

 2014823日発信メール 

広島は豪雨のため大変な惨事にみまわれていますが、みなさんご無事でおられることを遠くメルボルンから祈っております。市民が生死をさまよう苦闘を強いられているときゴルフ三昧をしている首相、こんな低劣な人間を首相にしている国の市民は実に不幸です。自然災害の被害者にすら配慮しない人間です。戦争に若者を駆り出し、人を殺させ、自分たちも殺される状況に追いやることに、ほとんど心の痛みを彼は感じないのも当然でしょう。一日も早く安部政権を倒さなくては、文字通り私たちは彼に殺されてしまいます。 

「戦争被害者」といえば、例年通り今年もまた7月中旬あたりから815日にかけては、新聞もテレビも数多くの関連記事・番組を市民に提供しました。ジャーナリストの間ではこの現象を「8月ジャーナリズム」とか呼んでいるそうですが。実は、正直なところ、私は毎年この時期にもっともフラストレーションがたまります。その理由は、流される情報が、ほとんど「自分たちの戦争犠牲」だけに焦点を合わせており、私たちの両親や祖父母の世代がアジアの多くの市民に対して犯した様々な残虐行為、他民族支配抑圧行為に関する記事や番組がほとんどないからです。しかもこの傾向は年を経るごとに悪化しています。例えばNHKですが、日本軍性奴隷問題(最近、私はなるべく「慰安婦」という用語を使わないようにしています)を取り扱った2001年の「女性国際民衆法廷」番組が安倍の政治圧力で改変されて以来、日本軍性奴隷問題に関する番組はほとんど放送していません。同時に、南京虐殺やその他様々な日本軍の残虐行為、天皇戦争責任に触れるような番組もまた、ほとんど放送しなくなりました。オリバー・ストーン制作の原爆殺戮批判を含むアメリカ批判のドキュメンタリー番組は喜んで放送するNHKですが、日本の戦争責任については今やほとんど触れようとしないのが現状です。民法でも同じような傾向です。新聞社も同様です。原爆・空襲被災、戦場に送られた兵士たちの餓死、特攻で死を強制された若者などなど、もっぱら自分たちの被害にだけ焦点を当てた記事ばかりの毎日でした。なぜこうも、私たちの加害行為で被害者になった多くのアジアの人たちへの想いが私たちの頭に浮かばないのか、私には本当に不思議に思えてしかたがないのです。 

加害と被害の両面に常に想いを馳せた希有な被爆者・沼田鈴子さんのような人がなぜもっと数多く日本では出現しないのか、私には不思議でしょうがありません。ちなみに、故・沼田鈴子さんの思想と活動に関しては、私はすでに2012122日に行われた追悼集会で、「沼田さんの優しさと強さを受け継いで」と題して講演しました。今年87日にYWCA「ひろしまを考える旅2014」のために講演を依頼されたので、再び沼田さんの生涯について私見を述べておきました。(講演ノートはPeace Philosophy Centreのブログに載っていますので、ご笑覧いただければ光栄です

なお、講演後の補論として、「被爆体験の継承」と最近上映された映画「アオギリにたくして」の私見も加筆しておきました。 

日本軍が犯した様々な残虐行為については、すでに私はいろいろなところで発表していますので、ここでは繰返しません。しかし、7月上旬に突然インドネシアから送られてきた興味深い関連メールについて紹介させていただきます。 

メールは、ジャカルタにある熱帯病研究所「エイクマン研究所」の一研究員からでした。送信人は、この研究所と共同研究を行っているオックスフォード大学の研究プロジェクトに携わっているアメリカ人ケビン・ベアードという人で、マラリア病専門研究家です。彼と「エイクマン研究所」所長のサコット・マズキ(インドネシア人でオーストラリアのモナシュ大学医学部教授を兼任)という2人の熱帯病専門家が、太平洋戦争時代にインドネシアで日本軍が犯したある重大な人体実験=戦争犯罪行為について共著の本の原稿執筆を終えたところだという知らせでした。来年アメリカで出版される予定になっており、ついては私に原稿を読んで推薦文を書いて欲しいとの要請でした*。8月中旬までは忙しくて原稿を読んでいる時間がないが、その後でもよいならと引き受け、全原稿と数多くの関連写真をメール添付で送ってもらいました。(*J. Kevin Baird and Sangkot Marzuki, The Mochtar Affair: Murder by Medicine in Japanese Occupied Indonesia 1942 – 1945.  2015年出版予定とのことですが、出版社名は知らされていません。)   

340ページほどある大著で、しかも医学的解説を多く含んでいるので、熱帯病予防ワクチンについて全く知識のない私には決して読みやすいとはいえない難解な著作ですが、今日なんとか全部読み終えました。その内容をごく簡潔にまとめて紹介すると次のようになります。 

「エイクマン研究所」は、オランダ人医師クリスチャン・エイクマンが1888年にバタビア(現在のジャカルタ)に設置した熱帯病研究ラボが基盤となり、1938年に「エイクマン研究所」と改名され拡大発展しています。エイクマンは当時オランダ植民地であったインドネシア(当時は「オランダ領東インド」)に滞在中に脚気の原因を発見し、1929年にはノーベル生理医学賞を授与されている傑出した医学者で、インドネシア医学校設置にも尽力した人物です。このインドネシア医学校からは優秀なインドネシア人医師が生まれ、その中にはアムステル大学にまで留学して医学者になった者も少なくありません。植民地支配下でこのように現地住民が医学者となって育っていたことを、恥ずかしながらこの原稿を読むまで私は全く知りませんでした。オランダ植民地下のインドネシアでは、「エイクマン研究所」の他に、「パスツール研究所」もオランダ政府の資金で設置され、熱帯病予防研究と熱帯病予防ワクチン生産が行われていました。 

19421月から2月にかけて日本軍がオランダ領東インドに侵攻し、3月初めにはバタビアを攻略して、インドネシア全土が日本軍支配下に入りました。インドネシア医学校、隣接するエイクマン研究所からもオランダ人医師や医学者は排除され、彼らは収容所に送られました。医学校と研究所は日本軍支配下に入り、インドネシア人スタッフだけが引き続き仕事に従事することを許されました。医学校の事実上の校長とエイクマン研究所・所長の両ポストに任命されたのは、当時、黄熱病研究などで世界的な功績をあげていたアクマド・モクターというインドネシア人医学者でした。パスツール研究所も日本軍に接収され、「防疫研究所」と改名されました。ここでは、当初はオランダ人研究者も研究を続けることを許されましたが、間もなく彼らも収容所に送られ、「防疫研究所」は完全に日本陸軍によって運営されるようになりました。パスツール研究所では、戦争が開始される前には、「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンを大量生産しており、日本陸軍がこれを引きついでいます。同時にパスツール研究所は破傷風予防のための新ワクチンを開発中でしたが、日本軍が侵攻してきたため、この研究は中断されています。当時は、破傷風は負傷した多くの兵がかかる致命的な病気で、そのため兵力維持のためにはこのワクチン開発が極めて重要な課題でした。

一方、日本軍は数多くのインドネシアの若者や農民(1540歳ぐらいまで)を強制労働に駆り出し、ジャワ島のみならず、マレー半島やビルマなどにまで連行して建設工事や道路工事などの重労働に従事させました。連合軍捕虜を酷使した悪名高い泰緬鉄道建設にも、多くのインドネシア人たちが使われました。彼らは「労務者」と呼ばれましたが、「ロームシャ」はインドネシア語にもなり、英語圏でも日本軍のインドネシア人酷使を表現する用語として知られるようになりました。正確な人数は分かりませんが、400万人以上いたと推定されています。その内、28万人あまりがタイ・ビルマ(その多くが泰緬鉄道建設工事のため)に送り込まれましたが、戦後、インドネシアに帰国したのはわずか52千人ほどだったと言われています。連合軍捕虜同様、彼らロームシャも、わずかな食糧と乏しい医薬品のもとで重労働を強制され、次々と亡くなっていったことは、生き延びた連合軍捕虜たちの証言からも知ることができます。 

戦後、スカルノ政権は死亡した労務者400万人に対する戦後賠償金として日本政府に100億ドルの支払いを要求しましたが、日本政府は「証拠無し」と主張して支払いを拒否しています。実は、スカルノ自身が戦時中に日本軍に協力して、「ロームシャ」を駆り出すことに加担した人物でした。「慰安婦」問題では「河野談話」で、一応、日本政府からの謝罪が出されていますが、「ロームシャ」問題では、これまで日本政府からの謝罪は一切ありません。ちなみに、ロームシャを集めるにあたっては、「高い賃金支払い、十分な食糧提供」などという嘘の条件で騙すという方法がしばしばとられたとのこと。日本軍性奴隷を集める手口と類似していたことが分かります。 

19447月下旬、バタビアの郊外のクレンダーという所に設置されていたロームシャの集合施設、つまりロームシャとして集められた人たちを一旦この場所に集合させ、ここから東南アジア各地に分散して送り込むまでの仮の居住施設にいた900人あまりのインドネシア人全員に、防疫研究所が生産した「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンの注射が行われました。ところが、それから1週間ほど経った8月初旬、次々と彼らには破傷風の症状があらわれ、七転八倒の苦しみの中でバタバタと死んでいくというたいへんな事態となりました。最初は患者を医学校病院に送り込んでいた日本陸軍は、すぐにクレンダー集合所を立入り禁止として、部外者を入れないようにして、900人あまり全員を集合所内で死亡させてしまいました。防疫研究所の陸軍医療スタッフが「発疹チフス+コレ+赤痢」の混合予防ワクチンにさらに未完成の破傷風予防の新ワクチンを加えたものを作り、それを注射したものとしか考えられないと、この本の著者2人は詳しい医学的分析によって結論づけています。通常は、この種の新ワクチンをテストする場合には、まずはモルモットを使って実験を行い、それで安全が確認されてから今度はサルを使って実験するという段階的テストを行うのが通常であるとのこと。陸軍医療スタッフはこうした基本的手順を抜いて、最初からインドネシア人にワクチン注射を行ったわけですから、パスツール研究所から受け継いで開発した新ワクチンにそうとう自信があったものと思われます。日本兵に新ワクチンを投与する前に、インドネシア人ロームシャでまずは試してみようと考えたものと思われますが、このような重大な事態になるとは予想していなかったものと思われます。 

防疫研究所はこの大失態の責任を逃れるために、憲兵隊と共同画策して大嘘をつくことを考え出しました。それは、エイクマン研究所・所長のアクマド・モクター教授が、日本軍占領支配に打撃を与えるために、破傷風菌毒素でワクチンを汚染し、ロームシャを大量殺戮して日本軍の信用を崩壊させる目的で行った破壊工作であったということにしてしまうというものでした。エイクマン研究所にも医学校にも破傷風菌毒素などは保管されておらず、そのような破壊工作はどう考えても不可能でした。しかし、憲兵隊は10月初旬にモクター教授をはじめエイクマン研究所や医学校のインドネシア人スタッフ19名を逮捕し、やってもいない犯罪を白状するよう、様々な拷問を彼らに加えました。間もなく、そのうちの1名が拷問の結果なくなりました。モクター教授は同僚の命を救うために、憲兵隊が用意した全く虚偽の告白状に署名し、自分一人で行った犯罪であると主張したのです。その結果、同僚たちは全員釈放されました。もしかすると、そのような交換条件がモクター教授と憲兵隊の間で取り交わされた可能性もあります。 

しかし、不思議なことにその後もモクター教授は監禁され続け、ようやく翌1945年の73日になって処刑されています。もはや日本の敗戦が明白となった1ヶ月少々前になって処刑が行われた理由は、敗戦になり、連合軍が日本軍の戦争犯罪行為を調べ出して、このでっち上げ事件が明らかになることを日本軍が恐れたためではないかということです。つまり、「主犯」である人物を処刑してしまい、この事件は解決済みということにしてしまったわけです。日本軍の思惑通り、この「モクター事件」は、連合軍による日本軍戦争犯罪調査には全く含まれませんでした。熱帯病に関する相当の医学的知識をそなえた検察官でないと、当時はこの事件の真相について疑いをもつことはできなかったと思われます。 

この本の共著者であるケビン・ベアードとサコット・マズキは、モクター教授がワクチンを破傷風菌毒素で汚染することが不可能であったこと、ロームシャに注射したワクチンを生産した防疫研究所による全くの準備不足による結果以外に死亡事件が起きるはずがなかったことを、医学的分析を駆使して裏付け、さらには関連生存者がのこした様々な回想記や、今も存命中のただ一人の関係者への聴き取り調査などでその裏付けを補足するという方法をとっています。

私のように、医学に無知な単なる歴史家ではとうてい果たせない実証方法です。なぜこのような重大事件がこれまで歴史家によって明らかにされてこなかったのでしょうか。それは、この戦争犯罪ケースの分析には、通常の歴史家が持ち合わせていない、医学的分析力が欠かせなかったからに他ならないと思います。ケビン・ベアードとサコット・マズキという熱帯病専門家の知識と、モクター教授ならびにエイクマン研究所の名誉挽回への彼らの強い熱望があったからこそ、「モクター事件」の真相がようやく明らかにされたのです。 

処刑されたモクター教授には妻と2人の息子がいました。息子の一人はオランダに渡り父親同様に医者になっており、オランダ人女性と結婚しています。彼らの悔しさ、苦しみはいかほどのものであったろうかと想像せずにはいられません。この著書が世に出ることで、戦後70年目にしてようやくモクター家の名誉が回復されます。どう少なく見積もっても数十万というインドネシアの若者たちがロームシャとして故郷を遠く離れた場所で重労働に喘ぎながら亡くなっていきました。息子や夫、父親を強制労働で失った多くのインドネシアの人たちの悲しみと、一家の働き手を失ったその後の生活苦難はいかほどであったろうかと考えずにはいられません。 

このメールが、現在のあまりにも独善的な日本の一方的戦争被害観に対して疑問を投げかける一機会となれば幸いです。 

最後まで読んでいただきありがとうございました。
 


メルボルン(オーストラリア)にて

2 comments:

  1. Sasaki Azusa10:13 pm

    北海道十勝の佐々木あずさです。
     Peace Philosophy Centerのメールで、モクター事件の概要を知ることができましたことお礼申し上げます。25年ほど前、20代の私も、戦争の被害だけを知ることに疑問を感じ、タイやマレーシア、シンガポールを訪ね、現地の方たちとの交流を通して加害の側面を学びました。そのころ、沼田さんの加害と被害の両面で戦争を語っていることを知ることができたことを、戦後69年の今、思い出しています。
     さて、今回のレポートにも歴史の渦の中でうやむやにしてしまった日本(軍)のことが言及されています。ご遺族の、その後の人生を思うと胸が締め付けられます。今やっと、ご本人とご家族の「名誉回復」がなされようとしていますが、今を生きる私たち日本人がやらなければならないこと、知らねばならない事だと痛感します。
     実は、北海道帝国大学(現、北大)の学生で、宮澤弘幸さん(東京出身)も、今、その名誉回復を求めている真っ最中です。戦争開戦のどさくさの中で、スパイとして、突然逮捕され、やっていないことを「やった」とされ、戦後間もなく無念の死を遂げた彼も、彼のご家族も、戦後も「スパイの家族」として隠れるように生きてきました。(その兄を慕っていた妹さんは、戦後、アメリカに移住しました。)今こそ、日本人のみならず、日本の戦争のために人生を狂わされた方たちの名誉回復に、戦争を知らない私たちが取り組まなければならない時が来た、と痛感しています。
     長くなってしまい申し訳ありません。これからもよろしくお願いいたします。

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  2. sasaki azusa10:34 pm

    モクター事件の概要を知りました。調査、出版、翻訳および推薦などに関わる皆様に敬意を表します。
    先生のご紹介にもあったように、処刑されたモクター氏とその家族は、戦後、事実を知らされないまま、日本(軍)によって闇の中に放り投げられてしまったことを思うと、日本軍性奴隷問題、ロームシャ問題同様、うやむやにしてはいけない課題だと痛感しております。
    北海道帝国大学(現北大)の学生であった宮澤弘幸氏も、戦争開戦のどさくさの中でスパイとして逮捕され、戦後釈放されて間もなく、真実を語れぬまま病に倒れました。ご家族も、スパイの家族という汚名を背負って生きていました。ただ一人のご遺族、妹の秋間さんはアメリカに移住して暮らしておられますが、私たちは宮澤さんが死んでなお、その名誉を回復することを北大にも訴えています。(宮澤さんが「秘密を洩らした」とされるレーンご夫妻(米国人)も逮捕されましたので「宮澤・レーンスパイ冤罪事件」と呼んでいます)。
    戦後69年の今、戦争に巻き込まれた方たちの「名誉回復」を求めることが強く求められていることを痛感するレポートでした。

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