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Thursday, June 22, 2017

沖縄「慰霊の日」に 大田昌秀さんを偲ぶ 沖縄国際平和研究所に協力を Remembering Ota Masahide, 1925-2017

前回の投稿では、元沖縄県知事の大田昌秀さんの2010年のインタビュー、未発表の日本語版を紹介しました。沖縄時間でその2日後、6月12日、92歳の誕生日に、大田さんは永眠されました。沖縄戦体験者として、ジャーナリストとして、学者として、教育者として、政治家として、沖縄、日本、世界中のたくさんの人たちに影響を与えてきた人と思いますが、私も、その晩年に多くのことを教わることができた幸運な者の一人でした。訃報をきいたときは、翌日からカナダ東部、トロントとモントリオールへの旅に出ることになっていました。予定変更して、沖縄に駆け付けようかと思いましたが、行先では仲間たちが沖縄について話をする場を設けてくれていました。前投稿にもあるように「壁の向こうに友人を作る」大切さを強調していた大田さんなら、きっと、しっかり任務を果たしてきなさいと私に言うだろうと思い、予定通り行ってきました。大田さんにいただいて以来、座右の書としている『死者たちは、いまだ眠れず 「慰霊」の意味を問う』(新泉社、2006年)を携えて。

きょう、沖縄の「慰霊の日」です。

この本の前書きより:
1945年も半ばを過ぎると、日本軍にとって、負け戦の沖縄本島南部戦場は、まるで「人間屠殺場」ともいうべき凄惨きわまる断末魔の様相を呈していました。そこでは、対敵同士の殺し合いどころか、わずかの水や食糧を奪い合って味方同士までが殺し合う無間地獄そのものでした。
わたしは、その激闘の戦場から奇跡的に生き延びて以来、敗戦後六〇年余の今日にいたるまで、この死闘の実相を一日も忘れたことはありません。多感な一〇代のころの戦争体験だけに、しかも多くの親しい学友たちのかけがえのない若い命を奪われたこともあって、忘れたくても忘れようがないのです。
もはや二度と会うことも叶わぬ親しい人たちの無残な死にざまを目の当たりにして私は、心の底から戦争を呪い、憎まずにはおれませんでした。思えば、敗戦までのわたしの人生は、文字通り戦争に出るための「準備期間」でしかなかったのです。そんなこともあって、敗戦後のわたしの「余生」は、むごたらしい死をとげた恩師や学友たちのいわば「慰霊の道のり」にほかなりませんでした。
戦後すぐ、米軍の圧力を気にしながらも死者の遺骨収集に取り組んだ若き日から、県知事として取り組んだ、沖縄県平和祈念資料館の拡充と内容の充実、「平和の礎」の建立経緯を綴り、とくに日本の再軍備化と連動する沖縄の戦争記憶の「靖国化」は許さない、という危機感は2017年の今日、残された私たち世代が引き継がなければいけない問題意識です。

この本に、何度も繰り返し読んだ部分があります。大田さんが戦後沖縄が米軍占領下にある中、本土から密航船で持ち込まれた新憲法の写しに出会ったときの気持ちを書いているところです。(147-8頁)
初めて目にした新しい憲法。わたしはそれを手にしたとき、かーっと全身が燃え上がり身震いしました。そして思わず胸中にこみあげるものを覚えたものです。そのころは、戦場から生きのびたとはいうものの、一種の解放感のほかは、生きている喜びもなければ実感もわかず、文字どおり身も心もボロボロの状態でした。それほど戦争後遺症で心身共に病んでいる状態でした。しかも敗戦後は、価値観が丸ごとひっくり返ったこともあって、前途にいかなる希望を見出せず、いたずらに無為にその日その日を過ごすだけだったからであります。 
それだけに新憲法の一語一句が切実に胸にしみました。とりわけ憲法前文の理念と九条の戦争放棄の規定は、まさにわたし自身の気持ちを適確に代弁したにもひとしく、驚喜したものです。
それは、いくどとなく戦場で死と向き合うたびに心の底から希求せずにはおれなかった平和の思いとぴったりの内容に思われたのです。新憲法には戦場で完全に失われていた人間としての基本的権利とともに何よりも戦争を禁じ平和への志向が明確に保障されていたからでした。
わたしは夢中になって、平和憲法の前文と九条をはじめ主要な条文を鉛筆で書き写しました。複写機などない時でしたから、書き写すのに相当の時間がかかりました。が、少しも苦にならず、鉛筆をなめなめ一語一語に力が入ったものです。
こうして新憲法との思わぬ出会いが、わたしに新たに生きる希望と喜びを与えてくれました。まさに感無量でした。言うなれば、新憲法は、誇張ではなく、わたしの生きるよすがとなっただけでなく、その後の新たな人生そのものへの最善の指針ともなったのです。
ここを何度も読むのは、感情を揺さぶり奮い立たせる言葉であると同時に、そのように大田さんが希求した日本の戦後憲法が戦後72年経ったいまも、沖縄には事実上適用されていない状況を自らに突きつけるものであるからです。

(6月24日追記:映画『沖縄 うりずんの雨』のジャン・ユンカーマン監督が同映画の取材映像で、大田さんが摩文仁でちょうどこの新憲法を知ったときのエピソードを話している映像を公開してくれました。許可をもらってここに映像埋め込みします。ジャンさん、ありがとう!)



★★★

大田さんと一緒に写真を撮ったのは1月31日が最後でした。大田さんをノーベル平和賞にノミネートしたグループの、宮城千恵さん、石原昌家さん、高良鉄美さんと一緒に大田さんの事務所を訪ねました。

右から、高良さん、大田さん、宮城さん、乗松、石原さん。
2017年1月31日、沖縄国際平和研究所にて。
このときは、みんな、この時間の貴重さをどこかでわかっていたと思います。大田さん、ノーベル賞受賞演説を用意しておいてくださいよ、などと談笑しながら写真やビデオを撮りまくりました。

最後に大田さんに会った日、またいつでも遊びに来なさいと言ってくれたときの笑顔が忘れられません。手を取りましたが、もう骨と皮のようになっていて、握ったら壊れてしまいそうでした。

★★★

事務所で大田さんを支えてきた桑高さん、藤澤さんに感謝を申し上げます。大田さんが県知事時代に構想しつつも県の事業としては道半ばで終わった国際平和研究所はいま、「特定非営利活動法人 沖縄国際平和研究所」として生き続けています。私はこの研究所の会員ですが、研究所のニュースレター5月号で理事長の大田さんはこう会員にメッセージしています。
会員のみなさま、お変わりなくお過ごしのことと拝察いたします。お詫びのないほどご無沙汰しておりますことをお許しください。
平成24年に、沖縄国際平和研究所を立ち上げて4年、いま、皆さまのご協力を賜って、職員2人とともに、小さいながらも沖縄戦とホロコーストの写真展示と沖縄国際平和研究所の維持に努めております。しかし、創立以来の厳しい状況はなかなか変わりません。現在の危険極まりない日本の状況、そして数多くの基地を抱える沖縄にあってはとりわけ、あらゆる手段を講じて平和を創出させることが不可欠の課題ですが、期待どおりの関心を十分に呼ぶことができずにいることが残念でなりません。
私ごとで恐縮ですが、今年、満で92歳を迎えます。寄る年波とはいえ時に自分の身体が自分のものでないようなもどかしさ、歯がゆさを感じながらも、諦めるゆとりはないぞと、老骨に鞭打って平和の創設に精一杯の努力を強いているところです。
この事務所の維持も、ひとえにみなさまのご支援のおかげです。どうぞ今後ともご指導、ご鞭撻を賜りますよう、切にお願い申し上げます。
2017年5月 大田昌秀

大田さんが亡くなったことが大きく報道され、県民葬ももたれるとのことですが、近年、大田さんの国際平和研究所とその仕事は十分な注目を集めないできました。この機会に、みなさんには、大田さんの遺志を引き継ぎ、沖縄国際平和研究所を起点とした、平和のための活動や研究の維持・発展に協力していただけますよう、会員の一人として呼び掛けたいと思います。

2017年6月22日(沖縄時間23日) 「慰霊の日」に  乗松聡子








Friday, June 09, 2017

「壁の向こうに友人を作る」-大田昌秀元沖縄県知事インタビュー(2010年7月)未発表日本語版 Original Japanese Version of Interview with Ota Masahide, Former Governor of Okinawa and Nobel Peace Prize Nominee

Here is the original Japanese version of an interview with Ota Masahide, on July 20, 2010, for Asia-Pacific Journal: Japan Focus. See HERE for the English version.

沖縄戦で亡くなった人たちを国籍、軍民にかかわらず刻銘する「平和の礎」や沖縄県立平和祈念資料館など、自らの戦争体験にもとづき、平和のための政策や研究に生涯を尽くしてきた大田昌秀・沖縄国際平和研究所理事長、元沖縄県知事、元琉球大学教授に、今から約7年前、2010年7月20日、オンライン英字誌『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』用にインタビューを行いました。英語版は同年9月20日に

"The World is beginning to know Okinawa": Ota Masahide Reflects on his Life from the Battle of Okinawa to the Struggle for Okinawa

として発表しました。大田さんのインタビューで英語で読めるものとしては、もっとも本格的な記事となったのではないかと思います。

大田さんは6月12日で92歳の誕生日を迎えます。今年度のノーベル平和賞にもノミネートされています。

そういうこともあり、この記事の元となった日本語でのインタビューの全文を、今回ここに発表します。英語版ではすべての部分が掲載にはなっていませんが、この日本語版は完全版です。この当時大田さんは85歳でした。次から次へとコンピューターのように人名、書名、出来事や数字が出てくるのにはただただ感服します。

ここで大田さんは、「普天間代替施設」と称する辺野古の新基地が1960年代に遡る米軍の計画であったということを詳細な調査に基づいて図表とともに説明します。いま、国はこの基地の建設を着工し、埋め立てを始めてしまっています。

ここに紹介するのは大田さんの談話のほぼそのままの書き起こしです。沖縄戦における強制集団死についても大田さんの言ったまま「集団自決」と表記しております。

アップ後に表記や聴き取りなどの間違いが見つかり修正することがあることを了承ください。また、この投稿は、他のサイトやブログ等への全文転載は禁止とさせていただきます。リンクを記した上での部分的引用、リンクの拡散は歓迎です。この投稿のURLを共有する形で拡散してください。
http://peacephilosophy.blogspot.ca/2017/06/original-japanese-version-of-interview.html

2010年7月20日、大田国際平和研究所にて。乗松聡子撮影。

大田昌秀さん談話

2010年7月20日 1時半から 那覇市 大田平和総合研究所にて 聞き手 乗松聡子

導入
-ジャパン・フォーカス誌は沖縄のことを英語で発信する媒体としてがんばっています。琉球新報から賞をもらいました。

池宮城秀意(いけみやぐすくしゅうい)っていってね、(琉球新報の)社長をしていて、早稲田のドイツ文学を専攻した人。その人の息子が弁護士で、非常に弱い立場の人たちの弁護をしていて、お父さんも面白い人でね、本を書いていて、僕がその前書きを書いたことがある。僕の大学の先輩でもあったしよく付き合っていましたよ。マコーマックさんは、ずっと前にJAPANという本を何名かの人で出してね、私がそれを読んでその中でマコーマックさんの論文が一番印象に残って、私の本に引用したんですよ。それからの付き合いです。この間国際基督教大学の客員教授をしていて、僕は参議院していたからよく付き合った。だからこの間彼が主催して名護の市長選の前国際シンポジウムをして、彼がいろんな学者を呼んだ。それで選挙に勝ったから非常に良かったんですけどね。『属国』という本を書いた。その本を送ってもらったけどもなかなか面白いことを書いている。非常に沖縄への思いが強くてね、オーストラリア国立大学の教授だった。彼の大学院生でジュリア・ヨネタニという人がいて、ヨネタニという陶芸家と結婚し、半年間ぼくの事務所に通いつめて、県にいるときのこと(県知事時代のこと)を博士論文に書いた。見事パスして今国立大学の助教授になっている。

沖縄独立論
学外審査員の平(恒次)というイリノイ大学の経済学者、今引退している。ヨネタニの論文をほめていた。彼は、独立するといって今沖縄の若者たちを引っ張っている。一番最初に公然と独立論を唱えたのは平恒次だ。沖縄のインテリは皆、内心では独立したいと思っているけど、ある意味では見果てぬ夢のようになっている。平は宮古という離島の出身。そこの人たちは血の気の多い人たちで、宮古のこととなると結束するので有名。そこの農民たちが明治26年に初めて国会に請願した。宮古に人頭税といって一定の年頃になると一人一人に税金をかける。どこかに逃げるとその人の分までみんなで負担させられる。過酷な税金を課していたので明治26年に請願に行って制度を変えてほしいと。八重山というところがあり人頭税課していたけどそういうのは出てこない。宮古では制度の改正を訴えた。首里那覇から差別されていて反発エネルギーがある。平さんのお父さんが『宮古島庶民史』という本を書いていて、感動して宮古に会いにいった。もう亡くなっているが。その人の息子と知ってなるほどと思った。

田中角栄が日本国改造論を打ち出す前に、(平恒次は)中央公論新書から『日本国改造試論』という本を書いて沖縄を独立させるべしと公然と主張した。沖縄の人たちはなぜ内心独立したいと思っているのに言いだせないかと言うと経済的にもたないのではないかという懸念があって唱えない。彼は経済学者だから経済的な面もよく考えた上で言っている。独立という場合には普通、親国みたいなところに武器を取って戦うけれど、彼は違って、日本が本当に民主化したら連邦制みたいに、沖縄を独立さしても日本といい関係を保てるように独立したいという発想でやっている。最初は相手にされなかったけれど、最近は基地問題で日本政府があまりにもひどいから若者の間にじわじわと浸透している。名護の方に大学ができて、琉球大学の学長をしていた東江(東江平之 あがりえひらゆき)君という、平恒次と親しく、一緒にアメリカに留学した組。彼が流大にいるときに僕とも何十年の付き合いがあるから北部に大学を作りたいということで、県にいるときに20億の金で作らした。名桜大学のこと。そこに平恒次がよく集中講義に来る。

今独立党というのができていて、前からあるけれど無視されてきていた。この前の県民大会でも屋良(朝助)という党首が沖縄独立という旗を持って県民大会であちこち回ってきた。それで最近は独立研究所というのもできている。沖縄から東京にいった子たちが『うるまネシア』という雑誌を出している―昔沖縄はウルマ島と呼ばれていた―そういうわけで『うるまネシア』とか「琉球ネシア」とか言う。その雑誌は10号まで出ているが全部独立の論文ばかりだ。じわじわと平恒次の独立論が広まりつつある。(大田さんは?)僕の場合はね、唱える前に過去から独立論の系譜みたいに―1609年薩摩琉球入り以後王国がつぶされてしまったので―どういう人たちが独立を唱えてきたかということを片っ端から集めた。戦後マッカーサーが進駐軍の総司令官として東京に来たとき沖縄の人が独立させてほしいと英文で出したりした人がいる。そういうのを集めて二つの箱に集めてある。本にして整理してそれからやろうということでね。

沖縄には社会大衆党といって「社大党」という党がある。それを作った人は沖縄市(コザ)の市長をしていて大山(大山朝常おおやまちょうじょう)さんといって有名な人。死ぬ前に『沖縄独立宣言』という本を書いてベストセラーとなった。この人は日本復帰運動の中心人物だった。しかし復帰しても沖縄は全然変わらない、基地も減らないということで、この人は基地返還を唱えたために右翼から睨まれて脅迫を受けて市長時代には身を隠していた。コザ市というのは嘉手納基地を抱えていて米兵相手の商売人が多い。クラブとかバーとかね。基地反対を唱えると米軍は露骨にね、Aサイン(バーとかクラブとかで軍が認可したところ)というのがあったけど、反米的なことをすると、立ち入り禁止にしてしまう。そうすると商売人は困る。大山市長のように日本復帰を唱えたり基地反対したりするとAサインが、暴力団みたいな連中がやっているところもあるのでこの連中が脅迫した。3カ月程度身を隠していた。死ぬ前には独立したほうがいいということで独立宣言というのを出してベストセラーになった。

「集団自決」問題
普天間問題がこれだけ表面化してきたから普天間の問題を徹底的に・・・表面的ばかりなことを書いているので徹底的に資料をもとにしてやろうということで。20年ほどアメリカに通い続け国立公文書館から集め続けてきた。普天間問題がいつ頃から始まってどうなっているのかきちんと書こうとしている。ノーベル賞をもらった大江健三郎と岩波書店が訴えられていて最高裁に行っている。教科書問題、「集団自決」問題、これもここもみんな「集団自決」問題、この上のが全部資料だけど、これも今書いている。大江と僕が小さな雑誌で『沖縄経験』というのを出していた。僕が東大の新聞研究所に行ってもう出来なくなったけど廃刊にした。こっちが東京に行ったので。6号まで出した。二人で雑誌を出していた。だから裁判で―日本の最高裁というのは安心できないものがある―最高裁で勝たないとひどい目に会わされるから、大江も岩波もね。岩波から何冊か出しているから編集長とも親しい。なんとか勝たせないと、と思っている。

アメリカについても一生涯かかっても取れないくらいの資料が国立公文書館にある。「集団自決」だけでなく、沖縄戦全体について。去年もアメリカに行ったが時間が足りなかった。「集団自決」にまとを絞った。一部は探したが、別の隊長のところで、裁判の件になっている、命令したというのは見つけきれなかった。僕らは命令したというのは状況証拠から十分に証明できると思っている。できるだけ、直接の命令が出たか知りたいと思っている。(アメリカの公文書館はものすごい資料があって県のころは専任を雇っていた。あと5年というところまで来た。アメリカの公文書を買い取って沖縄の公文書館を作ったということだが。)宝の山ですよ。今でもびっくりするようなのが一杯ある。そこで調べていると、アメリカの機密文書は30年たつと解禁される。民主党の場合は25年で解禁。沖縄の場合は日本復帰した72年から30年、25年たたないと解禁してくれない。なのでまだまだ知りたい情報が残っている。11月の沖縄知事選で革新が取り戻したらまた派遣しようと思っている。今誰を出すかやっている。よく相談に来る。この前伊波(洋一)君も来た。

普天間移設、辺野古新基地問題
今の辺野古の問題も、県が集めたアメリカ側の資料を見るとショッキングなことが一杯出てくる。みんな背景がわからないから、中身がわからないからテレビとかでいろいろやっているが、全然わかっていないという感じがする。1965年の段階から沖縄を日本に返すという話がアメリカで、水面下で始まっていた。沖縄の主要な基地というのは嘉手納から那覇にかけて(那覇空港も米軍基地だった)中南部に、一番便利な場所に、一番人口密集地に基地があった。復帰までは、日本国憲法も沖縄には適用されていない。安全保障条約も適用されていない。そうすると米軍は核兵器とか生物化学兵器とかを勝手に持ち込んでいた。

久志村の方に弾薬庫があってそこで毒ガスがもれてアメリカの兵隊が24名負傷した。それをWSJ(ウォール・ストリート・ジャーナル)が暴露して大騒ぎになって核兵器、生物化学兵器を移せという運動がはじまり、復帰する直前の1970年に米軍は核兵器を大きなトラックに積んで移した、みんなに見えるようにして。しかしチェックはしていない、全部移したかどうかは。久志の方にあってね、やぎを飼っているわけ。やぎは毒ガスに鋭敏に反応するのでヤギが倒れたり死んだりしていたら毒ガスがもれたということがわかる。ヤギを飼っていて、そういうことは一般の人は知らない。米兵がやられたもんだからWSJが暴露。Red hat operationといって「赤い帽子の作戦」としてやったけど、日本政府の代表も沖縄知事も基地には勝手に入れない。

今でも世論調査すると、沖縄の60-70%は、まだ沖縄に核兵器があると思っている。反米的なものが出てくるから、米軍としては、復帰して日本国憲法や安全保障条約がこれまで勝手放題に使っていた基地がうまく運営できなくなる。とくに都市地域の基地が。那覇軍港も米軍が管理しているからね。そうすると那覇軍港からは、以前は、今の58号線は米軍が作った道路で軍用1号線と呼んでいたが、那覇軍港から戦車とか大砲を船に積んで、それを大きい長いトラックに積んで北部の演習地帯に運んでいた。そうすると戦争体験のまだ消えていない沖縄の人たちが怒って前に立ちはだかって邪魔する。

米軍としては復帰してしまったら、日本国憲法も適用され、基本的人権の問題も保障されるようになるからますます邪魔が増えて都市地域の運用が難しくなるということで、嘉手納以南の基地を全部今の大浦湾辺野古のところに集約して。那覇軍港は浅くて航空母艦を横付けできない。ところが航空母艦も横付けするようなのを大浦湾(水深30メートルもあって横付けできる)そこに巨大な桟橋作ってやろうとする。それから今の普天間基地にはヘリ部隊って戦闘部隊があって、沖縄国際大学に墜落したのは戦闘部隊だが、今普天間では民間地域に近すぎて爆弾を積めないので嘉手納に行って積んでる。それでは不便だから辺野古に基地を作って海からも陸からも自由に爆弾が詰めるようにしたい。それで辺野古に基地を作るのを1965年にはじまり、1966,67年には絵を描いておった、きれいに。

これがそれ。これが一番新しい今のね、V字型っていう今の一番新しいもの。
2006年『再編実施のための日米ロードマップ』から

これは米軍が作った1966年の計画。


『琉球列島沖縄 海軍施設基本計画』より

ここに巨大な航空母艦が横付けするっていうことで海軍が作ろうということで海兵が作ろうとしてアメリカのマニングという会社に委託して風向きとか調査してこういう絵を描いていた。これが今復活している。場所みんな同じでね。

これが97年で橋本総理と掛け合ったときの図案。Seabased Facility.


『日本国沖縄における普天間海兵隊航空基地の移設のための国防総省の運用条件及び運用構想 最終版』より
キャンプシュワブでしょ。桟橋かけてね、沖合に、海上基地を作ろうとしたわけです。それが米軍と日本軍の意向だった。Seabased facility という言い方をする。

90年以降になるとねえ・・・2002年になるとここに戻っちゃった。


『平成15年度版 沖縄の米軍基地』より
2005年の「米軍再編」での日米間協議で出た案は、1966年の案とよく似ている。
日米安全保障協議委員会『中間報告』

ここキャンプシュワブでしょう。1966年に作ったもののところに戻ってしまった。騒音とかうるさいからね、沖合に出してくれという言い方するわけですよ。ここに沖合に出すと、集落があるから、騒音がうるさいから、そしたら額賀っていう防衛長官がね、これを作ったわけですよ。前の名護市長の島袋っていうのと秘密で会ってね、離陸用と着陸用と別々にしたら騒音が減るっていうことでV字型を作ったわけですよ。

こっちから離陸してそっちから着陸する。ひとつの滑走路でやるなら離陸も着陸も同じところでやるから騒音がうるさいってことで、みんな文句言って沖合に出せ出せって言ったわけですね、そうするとV字型にしろということになって今またこれを一本の滑走路にしようって話し合っている。そうするとね、僕らの判断では、またこれに戻ると見ているわけですよ。(66年の計画の)。なぜ66年にできなかったかというと、あのときは安保条約が沖縄に適用されていなかったから、移設費も、建設費も、維持費も、全部米軍が負担しなくちゃいけなかった。ベトナム戦争の最中だから巨額の金が使われると。ドルが下落して、できなくなって放置していた。今はね、移設費も建設費も維持費も全部日本政府が持つからね、放置していたのが息を吹き返してできたらこんなにいいことはないわけです。

米軍にとっては。しかも思いやり予算が入ってくるしね。基地を維持する場合、硫黄島の話なんて出たとき僕は笑っちゃった。こんなことできるわけないと。硫黄島はほとんど住民がいない。自衛隊の基地があるだけ。基地を維持するためには労働者が必要なのですよ。硫黄島に移した方がいいと那覇市長なんかも言い。基地問題の中身知ってないなと。基地を維持するには労働者が不可欠。硫黄島には労働者がいない。そんなの米軍がOKするわけはない。V字なんかも額賀が説得して米軍のOK出たけど、現場の兵隊たちは、こんなバカな話はないと。いざ戦争になったらこっちが離陸だとかこっちが着陸だとか言っていて戦争がやれるわけないと。それでまた今一本に戻そうとしてるがね。

県はね、政府とアメリカ側はね、キャンプシュワブの沿岸部を埋め立てて作ろうとしてるわけですよ。そうすると政府はなるべくキャンプシュワブに近いところと言ってるんですね。軍事基地指定で立ち入り禁止で邪魔が入らない。早く作れる。ところが県はできるだけ沖合に出せ出せといっている。口実としてはここに集落があるから騒音が軽くなると言ってる。利権が一杯からんでる。沖縄の保守は砂利組合が支えてきた。砂利組合は独占企業で、沖合に出せば出すほど深くなるからよけいに砂利が必要になる。砂利組合の連中は、今の知事とか、僕の後の知事とか、前の名護市長とか、全部この砂利組合の連中が支えて当選させてきた。沖合に出せばだすほどもうかる。沖合に出すと環境関係者、女性たちが海に潜ってくいを引き抜いたりして邪魔するからいつまでもできない。だから国としてはできるだけ近くに、一本の線にまとめようとしている。

今は移設費も建設費も日本政府が出すわけだけど、どういう基地になるというのが全然中身知ってない。これが国防総省の出した報告書なんですよ。運用年数は40年、耐用年数200年の基地を作るといっている。(97年の国防総省の報告書)会計検査院というのがあって、全部予算をチェックするんです。1兆円から1兆5千億と言っている。日米政府は3-5000億といっていて5-7年完成にかかると言っているが、会計検査院は少なくとも10年と書いてある、これは12年と言っている。政府の中身と全部違う。僕らこういうの全部集めて徹底的にチェックしている。

民主党の今の本土の若い国会議員の中に、なぜ自分たちの税金を7千億も沖縄に使わなければいけないかという人たちがいる。そういうこときくと、沖縄はお金一銭もいらんからそちらに基地を持っていってくださいと言うんです。そういう人に限ってね、辺野古に基地を早く作れ作れと言うんですよ。どういう基地なのか知らないまま、どれだけの予算がかかるか知らないまま、そういうことを言うんですね。そうすると今グアムに8000人の海兵隊と9000人の家族を移すということに日米で合意している。それにかかる102億ドルの60%、60億5千万ドルぐらいは日本側が持つ。日本円にして7千億。つい最近ゲーツ国防長官が、102億では足りないから日本側にもっと負担してくれと、150億ドルと言ってるんですよ。そうすると9千億から1兆円日本の負担になる。辺野古の基地に一兆円から一兆5千億といわれる。そうなると大体3兆円使うということはアメリカの国防次官が言っている。そういう中身を知らないで辺野古設といっている。

ここのキングという普天間の副司令官が公表しているが、辺野古には普天間の替わりを作るわけではない、20%今の普天間より軍事力が強化された基地を作ると言っている。どういうことかというと爆弾が詰めないから辺野古に移して、陸からも海からも自由に爆弾積めるようにすると。あと最新式のMVオスプレイ、これを十数機持ってくると。これはアメリカでしょっちゅう事故を起こしていて「未亡人製造機」と言われている。それを辺野古に持ってくるものだから海上基地を作ってもそのヘリが安全に運行するようにできるには二カ年必要であると。だから12-16年かかるとも書いてある。そして費用も一兆から一兆5千億。関西新空港並みになると書いてある。このキングという副司令官は航空母艦35隻分の大きさになると書いている。そして今の普天間の一年間の維持費は280万ドルかかるが辺野古に移したら20%強化するから約100倍に膨れ上がって2億ドルになると。今の普天間よりずっと大きくなる。政府は滑走路も1300メートルになって5分の1に小さくすると発表した。今普天間は2800メートル。実際はそうじゃなくて関西空港なみになる。

米軍のロバート・ハミルトンという海兵隊の中隊長してた人が Marine Corps Gazette という機関紙があってそれに7回ほど論文を発表しているが、発表した論文で、基地は安全保障問題と全然関係ない問題だと言っている。これは今、日本の鉄鋼業界が韓国に抜かれて、新日鉄という日本一の会社が韓国に抜かれて非常に困っている状態。鉄が売れなくて。それで橋本総理が沖合に何万本もの鉄の柱を立ててその上に鉄の箱を作ってその箱をいくつかつないでその箱をつないだ上に熱い鉄板を張って滑走路にする。これは日本の経済をよくするための政治的配慮であって安全保障とは何の関係もないと、ロバート・ハミルトンは言っている。

くいうち方式というのは杭を打ってその上に鉄板ということ。(QIP?)3つ方法があって、ポンツーン方式とかいう言い方するけどね。ハミルトンは技術屋。鉄の箱と箱をつなぐリングが必要。日本でもアメリカでも発明できていなく、技術が進んでいるのは北欧であると。アメリカの海軍省が北欧に2億ドル出して研究を委託している。仕上がっていない。これを弱いリングでつなぐと沖縄の暴風にもたず、海中に沈む基地になる。世界で、海中に沈む二番目の基地になると。一番目はハワイの真珠湾だった。彼は僕のところに論文を送ってきた。名護の住民投票のとき(97年の)ときに防衛庁の連中が各家庭を回って酒やお金を配って買収したということを書いている。この前もみんな名護市長選で買収がはじまるから気をつけろと言った。事前投票がある。そこに企業が社員を動員して連れていく。それを廃止しろと。こちらも事前投票させると言った。

だからこういう問題はアメリカから見ると―アーミテージには会っていろいろ議論している。こういう固定式の基地はいらないと言っている。移動式でいいと。ベクテルという世界有数の軍事企業がある。その副社長に会った。その副社長はもう移動式をデザインしている。アーミテージは、こんな固定式はもう役に立たない、ミサイルのターゲットになりやすいと。移動式ならターゲットになりにくい。関西震災のようなことが起こったらすぐ対応できる。しかし日本国憲法のもとで武器輸出を禁止している。憲法に違反するおそれがあるから移動式だと憲法に違反する。移動式だと憲法に違反するから船を持ってきて引っ張ってくればいいと。アメリカ側としてはそんな基地は廃棄したほうがいいと。すぐ替わりを作るのではなく、普天間は、日本政府がアメリカ政府に正式に要請さえすればすぐ返してもらえると。キッシンジャーなんかも論文に書いている。

そういう論文がね、こういうふうに、こうして論文がアメリカの学者や軍事専門家が書いた論文が一杯ある。僕らは片っ端から集めて訳をして中味をチェックしている。そうするといろんな人が僕らの味方をしている。こういうのが7つくらいあって、これだけ多くの人が僕らを支援している。だから僕らは強く替わりの基地はいらないと言っている。(アーミテージ、キッシンジャー、ケイトー研究所、軍事関係者も普天間代替基地はいらないと言っている)それどころか在日米軍基地も撤退させる、今の安保条約も平和友好条約に変えなさいということをケイトー研究所がアメリカの議会に勧告書を出していて、そこのダグラス・バンドーという上級研究員の文を読んでね、見せたわけですよ、基地を。今ごろアメリカはこんなバカなことをしていると。すぐアメリカに帰って「沖縄はアメリカの軍事的植民地だ」という論文を発表して、こちらを応援してくれた。

ワシントンに「国防情報センター」Defense Information Centerというのがあって所長が歴代アメリカの海軍提督がなる。そこにラロックといって1974年ごろに大騒ぎをさせた男がいる。日本は非核三原則を作っていて、「核兵器を作らず持たず持ちこませず」となっている。しかしこのラロック情報センター所長がが「アメリカの軍艦が神戸港とかに入るとき核兵器を外して入るということはあり得ない」と言っている。日本はそれを、核兵器を積んだまま持ちこむのは非核三原則に反するといってそれで大騒ぎになった。あとでライシャワーがちゃんと日本政府と約束ができているということをばらしたわけですよ。そのラロックさんを僕が沖縄に呼んで、見てもらったわけですよ。ラロックさんはカメラマンを連れてきた。ビデオにとって基地の状態を、アメリカに行って半年ぐらい全国を回ってこちらを応援してくれた。

今、本土の国会では沖縄に理解のある女性議員たちが何名かいる。この人たちでも、大田さん、沖縄に基地が集中しているけれど地政学的に沖縄は有利だからやむを得ないという言い方をする。ラロックが来たとき、地政学の話をしたら、笑っていた。自分は韓国と北朝鮮からひと月前に戻ってきたばかりだと。で、地政学的に言うと、北朝鮮が脅威だとすれば韓国の米兵を増やしたほうがいいと。米兵増やす必要もない。北朝鮮の軍事力をはるかに上回る韓国の軍事力がある。米兵なんかいらない。国民所得は数倍。人口も二倍以上。もし北が本当に脅威だったら、地政学的には北九州のほうがはるかにいい。朝鮮半島に近いほうがいい。今でも「地政学」をもちだす人は国会にたくさんいる。

「壁の向こうに友人を作り」、「民衆を信頼すること」
どうして沖縄問題がこんなに解決が難しいかというと、民主主義といって、民主主義はすべて多数決。772名の国会議員のうち沖縄は9名。今は一人が自民党。以前は半分が自民党だった。半分は政府の言いなり。野党側の5名しかまともに主張できない。772対5となる。本土の政治家が沖縄の問題を自らの問題として考えるならいいが、他府県の政治家は自分の選挙区のことばかりだから、沖縄のことやっても自分の票に全く有利にならないといって相手にしない。多数決原理で決めるから常に沖縄は差別されるという構造になっている。これをくつがえすにはどうすればいいかというのが苦労する。

ノルウェーに国際平和研究所を作ったヨハン・ガルトングを沖縄に招いた。国際大学にランドール(W.T.Randall)というアメリカ人教授がいて、牧師だが、義憤を感じて「勝手に農民の土地を取り上げてけしからん」と言って、教会の牧師でありながら教会に反旗を翻す言動をし、教会から追放された。幸いに沖縄国際大学の助教授として迎え入れられた。この人が国際シンポジウムをやったときに事務局長だから、ガルトング先生を呼ぼうと。「あんな偉い先生が沖縄なんかに来ませんよ」というからだめもとで招待したら喜んで来ると。新聞社がランドール教授と対談させた。基地問題で日米両政府の権力の壁が厚すぎるといい、あなただったらどうするかと聞いた。ガルトング先生は笑って「大田さん、これはもう解決したも同然です。自分がノルウェーから来ている。基地問題について沖縄にまで来て話している。沖縄は孤立していない。世界中が沖縄を知っている。これで解決したも同じだ。」

復帰する前にイギリスの有名なレーニン賞もらったダニロ・ドルチ。イタリアのシチリア出身。労働組合のリーダー。シチリアはマフィアの多いところで、労働組合は狙われる。彼の同志がマフィアに殺された。その家族を全部引き取って養っているという偉い人。レーニン賞もらって日本に来た。『世界』が二人対談してくれと言われて対談した。僕が同じこと言った。「あなたが沖縄の知事だったら壁だらけでどうやってこの壁を突き崩して明るいところに出ようかと思う。あなたならどうする」笑って、「政府権力というのは簡単に崩せない。正面から崩そうと思ってもダメ。そういう壁の前にふさがっていたら、壁の向こう側に一杯友人を作りなさい。そうすれば壁はないと同じ。」労働組合のリーダーだけに「民衆を信頼しなさい」と言った。ガルトングも「民衆を信頼しなさい」といった。

東京にガンジーの孫が教会みたいなのを作っていて、その人が沖縄に来た。僕がアメリカの大学にいるときにちょうどマーティン・ルサー・キングがバスボイコットを始めたところだった。いつも彼の言動をフォローしていた。僕自身南部で差別受けた。プエルトリコから密航してきたと思われて監獄にぶちこまれた。フロリダにジャクソンビルというところがあって沖縄の軍政府に勤めていた高校の教師が、ミス・チニーといって、僕はここの英語学校を出て彼女の通訳をしていたのですよ。アメリカに留学したら彼女は喜んで招待してくれた。僕はうっかりしてパスポートを寄宿舎に置いて出かけた。当時密航がはやっていて警官がはりついていて、電車から降りた途端彼女が迎えに来ている。パスポート見せろと言われたがなかった。ミス・チニーは「この人は私の客だ」と言うが警察は聞かない。警察のところに金網をはった監獄みたいなところがあってそこに一晩入れられた。いくら説明してもきかないから、翌日になって、疑うのなら僕の大学に問い合わせるといいと言った。問い合わせて、確かにうちの学生だということで解放された。

トイレも、white(白人), colored(有色人種)と別れている。南部の方は。僕も colored のところに行ったらお前はあそこだ、とwhite のところに行かされた。差別ということについて関心を持つようになった。大学のときエジプトの学生も差別された。インド人の中には黒人より黒い人がいる。ロビンソンという名前の男で、部屋探しに行ってくれというので行くと、「部屋はもう決まった」と追っ払われる。色が黒いので。何軒か断られ、農林大臣長官ロビンソンというが、インドから来たのが、俺は同じ名前なのに差別されると怒ってた。地域の新聞 Daily Orange というのがあって、その新聞に白人が犯罪をおかしたら白人とは書かない。黒人が犯罪したら名前と年齢と、黒人であるということを書く。エジプトとインドと私の3人で、ゼミのときに問題として持ち出した。2カ月ほどがんがんやって、教授が裁定してそうだ、差別だということになって新聞社にやめさせたことがある。

そういう関係もあってキングの言動に注目していた。大学終えたばかりで。いかにガンジーを尊敬しているかがわかった。アメリカから帰って一人でインドに渡ってガンジーの足跡をたどった。その(ガンジーの)孫が、沖縄にきた。あなたが沖縄の知事だったらどう解決しますかと聞き、彼は、いくつかの解決策を言った。あまり参考にはならなかったが最後に「民衆を信頼しなさい」と言った。3人が同じこと言った。アメリカでジャーナリズムを専攻したとき、大衆はどちらにもくっついていく烏合の衆だと教わっていた。しかしこの3人は Trust common people と言っている。非常に印象に残った。ダニロ・ドルチに会ったのはちょうどベルリンの壁が崩れる前だった。東ドイツも西ドイツも壁があっても行き来した。壁が実質なくなった。この人の先見の明に感心した。それでアメリカに行くとなるべくたくさん友だちを作るようにした。今ここにこうやって沖縄を支持してくれる論文が600件くらいある。それを今訳している。日本、中国、シンガポールからも支持する手紙が来ていて22万通くらいある。したがってこの問題というのはずいぶん広がっている。

沖縄研究の世界での拡がり、英語発信の大切さ
僕が驚いているのは、欧米の若い研究者が沖縄の最近の研究をしているのが多い。ここに300冊、500冊の修士、博士論文がある。レベル高い。「ヌチドウ宝」の言葉があるでしょう。ロンドン大学の学生が来た。これは矢野輝雄(やの・てるお)これは県立芸大の教授が『沖縄芸能史話』という本を書いていて、山里永吉という有名な絵描き・劇作家がいた。この人は戦前沖縄の出身としてははじめて中央で知られる人だった。「首里城明け渡し」という劇を書いて最後に尚泰王が無理やり明治政府に引っ張られて東京に移った。首里の市民たちが土下座して尚泰王を見送る。そのとき尚泰王が「戦世(いくさゆん)終(しま)てぃ 弥勒世(みるくゆん)やがてぃ 嘆(なじ)くなよ臣下 命(ぬち)どぅ宝」(戦争も終わってやがて平和な時代が来るからそう嘆き悲しまず命を大事にして)ということを尚泰王の口を借りて言わせたと、いうことになっていると。

ロンドン大の学生は違うのではないかと言う。蔡温という18世紀の政治家、行政家のこと沖縄の三大偉人の一人蔡温全集に「五教条」と修身読本みたいなのがある。有名な本。これを引っ張り出して開けて、原典じゃないかという。漢文で「何ものにも優り命が大事である。他のものは失っても取り戻せるが命だけは取り戻せない。だから命を特に大事にしなさい」とある。イギリスの青年が、これが原典じゃないかと言うから参った。この青年は今、金武町にいる。基地問題には興味がないと言って、金武町700年の歴史について書いている。ロンドンから来たオクスフォードの女子学生が僕のところに来て「琉球最後の国王の尚泰王について論文が書きたい」というので尚泰王実録といって膨大な量の記録がある。僕らも全部読んだことはない。それはもう全部目を通したという。尚泰王が麹町にすんだが、そのとき何を食べていたか、何を着ていたか、和装だったのか、言葉は何を話していたのか知りたい。生きざまを書きたいと。日本人でそんな人はいない。

『沖縄と小笠原』という雑誌があり、沖縄協会というのができた。外務省の一外郭団体。東大の茅(かや)総長が会長、歴代大学の総長が会長・・・その協会から、『沖縄と小笠原』という雑誌を出している。その中に尚泰王の女中の思い出話を書いていたのを思いだした。それを見なさいと言ったら非常に喜んで行った。その後は知らない。グルジアから来た女の子が参議院の事務所に来た。金沢大学の博士論文を書いているという。沖縄がテーマ。なんでグルジア?世界中に沖縄があるから。一つの国の中には必ず社会がいくつもあり、マジョリティとマイノリティがいて、マイノリティはいつも圧迫、差別される。沖縄がそう。世界中にある。自分の国もそう。ロシアから常にいじめられている。沖縄を勉強すれば自分の国がわかると。字も綺麗で文章も日本人より上手。

沖縄の三味線について博士号取った人など一人もいなかったが、ロンドンには3人もいる。その一人は東京芸大出て沖縄芸大に入ってロンドンに帰った。・・・本当にレベル高い、NZ,イタリア、ドイツ。アメリカはもちろん。イギリスが以外とびっくりするほど多い。この前グレン・フックといってシェフィールズ大学のアジア研究の人。名護に来てマコーマックさんがシンポやったとき沖縄に来た。奥さんが日本人。自宅に呼ばれた。沖縄一のおいしい泡盛をあげたらそれをトランクに入れて途中で割れた、と。

(欧米で沖縄研究が進んでいる。)非常に嬉しいが、そういう人たちとキープアップするには英語であることが大事。沖縄問題を英語で発信できる人たちがいたらいいなと思う。アメリカ・ワシントンに3名ほどいる。そういう人がここにいるといいけど。島袋マリアという子がいてLAで peace fighter というのがいる。ワシントンには嘉数というのがいて必死になって沖縄の問題を手伝ってくれる。沖縄にいてくれれば。いろんな発表や論文もあるけどとてもヒマがなくて英訳できない。もう一人ジャンプという人が。父親を知っている。彼のうちに呼ばれた。息子がマイアミに住んでいる。メールが来た。父親がよく話をしていたと言われた。あちこちに友人が増えてきている。あんたたちがそういうことをやってくれるのは有難い。助かる。一番嬉しいのはそれ。国内だけでやってもだめ。アメリカの世論を動かさないと。

アメリカの良心的知識人
アメリカ人は、個人個人はいい人たちが多い。マンスフィールドやフルブライトとよく会った。去年ワシントンに行ったときも Mrs. Fulbright と一緒だった。マンスフィールドも世話してくれる。駐日大使として沖縄に来たときに大学から5名教官呼ばれて領事館で話した。アイオワ大学で教授をしていたと。お互いざっくばらんに話し合おうと言ってくれた。一人ずつ意見を。僕はやっぱりアメリカの人たちが沖縄の土地を強制的に取り上げたのは一番反米感情を煽ると。沖縄は8割が農家。農家は土地がないと生きていけない。一番大事な土地を取り上げるのはよくない。沖縄の移民を引き受けるところはないかと応募したらボリビアが。ボリビアには500世帯単位で移住した。非常な苦労し、「棄民」と言われた。

大学院のときにハーリングという教授がいて、奄美大島の研究者だった。偶然ボリビアに行ったとき沖縄の移民の窮状ぶりを観た。びっくりして写真を撮った。大学の図書館に寄贈してあると。ハーリング先生が大濱早稲田総長を自宅に招き食事。沖縄の大変な苦労を語った。写真観て僕もショック。県にいるとき、ボリビアから体育館、文化会館、図書館といわれ、県は金ないが、苦労知ってるから、目つぶって金だし、募金もして、銀行にも手伝ってもらって、三つとも作ってあげた。

そのときに僕がマンスフィールドさんに土地を取り上げていることが反米感情かっているということと、基地の産業が一大産業だと、県民の総所得の53%は基地だったが72年には15%、それから数万人の従業員がいたがどんどん首きって復帰のころには1万人くらい。今は8600人。基地収入は総所得の4.6%多いとき5.4.平均5%以下。復帰前は基地産業論を唱えていたが今は言わなくなっていると主張した。マンスフィールド、今どうなっているかと聞かれる。フルブライト、病気を押して。当事者がアメリカに来るのがいい。日本ばかりに任せていたら解決しないと。フルブライトの奥さんも沖縄に関心持ってやってくれる。そういう人たちがいるということが励みになっている。

海兵隊グアム・テニアン移転について
アメリカにはこういう人がいるということを知らすようにしているが本土のマスコミは全く知ろうとせず、安保マフィアといわれるジョセフ・ナイ、カート・キャンベル(いつもけんかしてる。ペリー長官の国防次官補代理していた。今国防次官補。)とかマイケル・グリーンとかいうジャパン・ハンドラーといわれている連中。日本のマスコミはこういう人の発言ばかりとらえ、僕らが知っている知性的な論文に目を向けない。共同、朝日、毎日、来るがいくら言っても聞かない。書くけど東京の本部で抑えられる。こういうのを見せてもろくに発表できない。僕らからすると1966年に計画を作ってできなかったのが今息を吹き返してしかもこれを作るための一兆、一兆5千億かかると言われる。グアムに移すのも1兆円といわれている、さらにこっちに一兆5千億も。

県にいたとき、ペンタゴンからの帰りにグアムに寄った。知事、議会議長、アンダーウッドという議員に会ったら大歓迎したいとのことだった。アンダーセン基地という普天間の13倍の基地がガラ空き。B52の基地がガラ空き。だからグアムに移すのが一番いいというわけです。そうしてやったらアンダーウッド下院議員を沖縄に招き普天間見せた。帰ってから3500人をまず引き受けましょうと言った。普天間には全部合わせても2500人しかいない。あと1000人も、と喜んでいたら、おそらく外務省、日本政府がちょっかい出したのでしょう、次会ったときにちょっかいが入って僕が困った状態になっているから、数字を出すのはやめようねというから、あ、いいですよ、あなたに迷惑をかけるのはしないからと。

僕は、グアムの住民が反対しなければいうことを条件に、グアムに移すということを主張した。チャモロ族の原住民が沖縄の労働者みたいに100名近く集まって座り込んでいるのを見た。グアムでね。そこに行ってなんで座り込んでいるんですかと聞いたら、リーダーは、自分たちの土地を強制的に取り上げ基地作って金払ってない、だから抗議していると。沖縄と似ていますねと言って、実は今グアム政府の帰りだが、知事、議長、下院議員は喜んで引き受けると言っているが皆さんどう思いますかと聞いた。そうしたら、金さえ払ってくれれば何の意義もないと言う。先月、今のカマチョ知事が沖縄に来た。キリスト教関係のランチョンがあって、グアムの女性運動家が沖縄に来て、高里鈴代というのが、基地を許さない女性の会、彼女と組んで、グアムに基地を移すのではなく廃棄すべきだという。

カマチョ知事に聞いた。この種の問題には必ず反対する人はいるが、圧倒的な多数は歓迎している。しかも内政問題だからみなさんが気にする必要はないと。廃棄するのを主張しているが、ダグラス・ラミスというアメリカ人がいる。津田塾で教えていた。元海兵隊員ですよ。彼の嫁さんが知念ウシといって、東大まで出ている。ウシなんて名前近代的でないのであまりない。年寄りには多い。戦前の沖縄の女性たちは日本化が進んでいるから恥ずかしがったので日本名をつけた。ラミスのワイフはわざとウシという名前を名乗っている。カマドゥー小の会というのを作っている。女性たちが。おばあちゃんたちの古い名前。基地包囲網をやっている。そのリーダーがラミスの嫁さん。ラミスがエッセイを発表し、基地を廃棄しろというのは聞こえはいいが海兵隊を解体しろということにつながる。外国の人がアメリカの海兵隊を解体しろというのは不可能である。むしろ基地を移せと言ったほうが解決策につながる。まさにその通り。

今、実は、アメリカは2005年に日米の再編実施に関する日米ロードマップというのを作った。その2カ月後アメリカの太平洋軍はグアムに、沖縄に替わる一大軍事拠点を作るということで計画を発表し去年の11月にグアムと北マリアナ諸島の環境調査をやっている。8000ページ。伊波君が言っているように、沖縄の普天間、ヘリ部隊も含めグアムに移すように書かれている。これを移してしまえば辺野古に作る必要ないと新聞記者にも言うが全然そのことを取り上げない。情けない限りです。共同ともあろうものが。毎日、朝日でさえも。毎日も朝日も反対の声が強いとかそういうことばかり書く。

Guam Pacific Daily News というのを取り寄せているが、グアムでは着々と進んでいる。今予算は保留しているが、これは切っているわけではなく、形がつくまでは予算は保留するというわけで、切ったわけじゃない。計画が進めばそれに応じて予算がつくことになっている。一番グアムに移すのが解決が早い。グアムも住民も沖縄戦と同じで非常に戦争で苦労している。そこはよく考えながら、日本側がインフラの整備をきちっとやれば。テニアンも、経済がよければ日本から観光客訪れる。74万人観光客いたのが今は40万人、経済的に苦しい。2400メートルの滑走路が4本ある。そのうち一本だけ米軍がときどき演習に使っている。あと3本はみな米軍のもの。そこに移したら沖縄のためにもテニアンのためにもなる。日本政府は相手にしない。日本に基地を置いとかないと抑止力にならないとか口実を作っているが、この論文みたらこれらの論文を見ても沖縄の海兵隊が抑止力なんて書いてあるの一つもない。主張しているが本土のマスコミは取り上げない。実態を英語で発表していくともっともっと理解も増えるし応援も増える。

基地問題は軍事問題ではなく、経済利権問題
(日本のマスコミが取り上げないのは辺野古に作りたい企業、マスコミ、官僚がつながっていますか)日本は非常に海兵隊が、米軍が沖縄と本土にいなければ自衛隊を増やすしかないというのがでてくる。今経済が厳しい。菅総理が消費税を上げようとする厳しい状況の中、という言い方するがこれも軍事学者が反論している。軍事問題と経済はじかに結びついていないと。中国は軍事増強しているが経済も伸びている、インドだって、軍事費増やしているが経済も発展している。自衛隊を増やすからと言ってそれが日本経済全体に与えるような影響はないという論文が出ている。革新の側は今も国民投票法案できて、憲法改正を恐れている。自衛隊増やすとなると憲法を変えないといけなくなって憲法が危ないと心配する。保守は自分の国は自分で守れ、軍需産業解禁にしろと言ってる。

アメリカは、アーミテージみたいに、こんな基地いらないというが、今になって憲法変えて集団的自衛権行使とか言ってる。彼は21世紀はメガフロートの時代といって移動式を言った。言いだしたのは日本の鉄鋼業界の渡辺っていう人が言いだしたと。ロバート・ハミルトンの記事に出ている。日本の鉄鋼業界がメガフロートということを言いだしてベクテルとかの軍需産業とか他の軍需産業と結んでやってる。アメリカに行ったときも商工会議所が会いたいということになって理事20名と会った。軍需産業の人間が絵を書いて僕のところに来て採用したらとか言う。僕は基地反対ということでアメリカに来てるんですよと言った。

これもね、日本の鉄鋼業界が、21世紀はメガフロートの時代とかいって、とにかく鉄を使うものを作りたい。安全保障問題とは違うと。アメリカには米軍を撤退させる、自衛隊を増やせと言う人がいる半面、スタックポールといって-ハワイの太平洋司令部の参謀長をした人がいて、どうして米軍が沖縄にいるかと聞かれ「瓶の蓋」と言った。自衛隊がこれ以上増えないようにするためにと。そうしてこういう論文に瓶の蓋というのがよく出てくるんですよ。日本にこれ以上自衛隊を増やしてはならん、アメリカの脅威になるということで。「瓶の蓋」と言ったから日本では大騒ぎになった。そのために米軍が沖縄にいるのかと。

北緯30度線の分断と、沖縄軍事植民地化の真実
歴史を見て驚いたのは、1941年の12月に太平洋戦争がはじまり、半年後に、国防総省と国務省は、沖縄と奄美諸島を北緯30度線で切り離すことを話し初めていた。なぜ沖縄を切り離そうとしたか。国際政治学者の本なんかを読むと、戦争に負けたから沖縄と奄美大島切り離されたと書いてある。戦争始めたのも沖縄じゃないし負けたのも沖縄だけでなく日本全体なのに、どうして沖縄を切り離すのか、たえず疑問だった。9名の日本の学者、政治学者、7名のアメリカの学者と共同研究をやった。ハワイとかアメリカ本国で会議をやった。坂本義和という教授に呼ばれ僕も入った。誰もこの問いに答えられない。

5年目にやっと見つかった。アチソンという国務長官が議会で証言している。北緯30度という線を引き、奄美大島の北の線、屋久島と口の島の間。奄美大島は鹿児島で、沖縄ではない。なぜ30度か。アチソンは議会で言っている。北緯30度線は大和民族と沖縄民族の境目の線だと。民族の違いを。つまり沖縄人は日本人じゃないと。それから奄美まで取った理由は、琉球王国の領土だった。その範囲が北緯30度となる。将来沖縄を軍事基地化するからなるべく広く取っておきたい。言語学者に聞いたら、大和言語と沖縄言語の境目が北緯30度。それから渡良瀬という生物学者がいて、北緯30度以北、以南の生態系も全然違うと、渡良瀬ラインと呼ばれている。

韓国の在日朝鮮人の作家が、日本人はおめでたいと言われる。38度線で朝鮮半島は分断された。日本は幸いそういう風に二分されなかったと。朝鮮半島をかわいそうがっている。切り離したのは日本人だよと。それなのに切り離されてかわいそうというのはおめでたいじゃないか。軍部が防衛の範囲を決めるために38度以北は関東軍が守る、以南は日本から行った軍が守ると。防衛をする範囲の線が38度線で、日本の軍隊がやった。北緯30度というのはどういう意味か、軍隊から見ると。30度以南は南西諸島防衛軍、沖縄守備軍、北は「天皇のおわします皇土」つまり純粋な日本だ。南はそうでないところ。北は本土防衛軍と名付けていた。なぜ沖縄は切り離されたか。結局、廃藩置県行われる、沖縄は明治12年、他府県に8年遅れて行われる。

George H Kerr といって『琉球の歴史』という本を書いている。英文でThe History of an Island People 英文で書かれた立派な本、ロングセラーとなっている。これが以前『琉球の歴史』という日本語に訳された。あれは自分の本じゃないと言っている。軍政府の司令官が悪用して沖縄を日本から切り離すために使った、だから自分の本じゃないと言っている。この中で日本の廃藩置県と沖縄の廃藩置県は根本的に違うと。他府県は同一文化、同一言語、同一民族を基礎にしている。近代的な国民国家を作るためにやった。ところが沖縄の廃藩置県は違う。日本の同胞ではなく、日本を守るための南の門をかためるために軍隊を常駐せしめることが目的だった。沖縄の人ではなく土がほしかったと書いている。そうすると廃藩置県に軍隊を沖縄に常駐させようとした。熊本の第六師団。明治政府が。沖縄は抵抗した。

沖縄は15世紀からずっと軍隊を持たなかった。猛烈に反対。沖縄の国務代表していた代表が明治政府と沖縄の間にはさまれ東京で悶死した。使者が。いうこと聞かないと軍事力で聞かせた。だから「琉球処分」と言われる。他府県ではそういうことはなかった。中国との関係が数百年続いていたので中国の外務相の李鴻章という人が、日本政府がこういう風に沖縄を強制的に併合したら次は台湾を取るだろうと。朝鮮に攻め入って朝鮮も取るだろう。中国も侵略するだろうと予言して、本当になった。そうなると戦後のアメリカの占領政策というのは、日本の非軍事化、非武装化だった。軍閥を解体、軍需産業を解体、その手段として民主化した。沖縄がアジア侵略の基地にされたということで、二度とアジア侵略をさせない、アメリカの脅威にならせないためには基地になった沖縄を切り離して非軍事化した方が安心できると、沖縄を担保にして日本の非軍事化を図った。非軍事化して25年ごとに国際機関にチェックさせるということ、国際機関の管理下に任せるということを話し合っていた。いざ戦争に負けて進駐軍が入ってきたとき、30万、40万たらずの軍隊で来た。38万。日本にはまだ440万人の正規の軍隊がいた。これが反乱を起こしたら大変なことになる。連合国の司令官が心配。政府の内部では沖縄を非軍事化しようとして話し合っていたのに、マッカーサーが「沖縄に軍隊を置いておけばいつでも対応できる」ということで沖縄を軍事化した。アメリカの軍隊を置くようになった。まさに瓶の蓋になる。日本軍が反乱したら、自衛隊が増えてきたら抑えるために米軍がいると。

マッカーサーが、沖縄人は日本人でないと。だから基地化しようが日本から切り離そうが、沖縄の人にしてみれば日本の圧政から解放されて嬉しいであろうと。日本本土の人は、資源の貧しい沖縄を持っていても何の足しにもならないから喜ぶだろうと。1947年の段階で。軍政府の連中は、沖縄人は日本人じゃないということばかり言っている。キャラウェイ高等弁務官は離日政策の一環として首里の博物館を作った。戦後の問題もそういうことほとんど知らない。1968年までは県知事は全部米軍の司令官が任命していた。知事くらい自分たちの選挙で選ぼうということで、主席公選運動というのが起こって、1968年に初めて実現。その前からライシャワーが立法院の議員増やしてCIAの金をぶちこみ、基地賛成の議員を増やそうということで1968年の主席公選のときは米軍政府と日本政府が組んで72万ドルをぶちこんで革新をつぶそうとした。日本政府は88万ドルをぶちこんで、アメリカの機密文書に全部名前まで出ている。こういうふうに沖縄の政治は全部手のひらの上に乗せられてやってきた。こういうのをアメリカの機密文書を調べたからわかるのであって、取っていなければわからない。いかに記録というのが大事か。アメリカから取り寄せる大事さ。身にしみている。

(以上)

注:辺野古基地建設計画の1960年代以来の変遷については
大田昌秀著『こんな沖縄に誰がした 普天間移設問題-最善・最短の解決策』(同時代社、2010年)197-230頁を参照。


平和の礎
「鉄血勤皇隊」に動員され亡くなった大田さんの学友たちを追悼する沖縄師範健児の塔の後方に建つ、「平和の像」。大田さんが中心となって製作、建立したもの。右側の少年が「友情」を、中央の少年が「師弟愛」を、左の少年が「永遠の平和」を象徴している。




Thursday, June 08, 2017

「普通」への疑問と、思考の「窓」にいざなう新刊: 『ダグラス・ラミスの思想自選集』A New Collection of Essays by Douglas Lummis

萬書房から出たてほやほやの本、『ダグラス・ラミスの思想自選集 「普通」の不思議さ』を紹介します。


C・ダグラス・ラミス Charles Douglas Lummis
C・Douglas Lummis
1936年米国カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。1958-61年米海兵隊将校。その後、カリフォルニア大学バークレー本校で西洋政治思想を学び、米日両国でベトナム戦争反対運動に関わり、1972年博士号を取得。UCサンタクルーズ、西ワシントン州立大学、デイープスプリングズ大学、津田塾大学などで教える。現在、沖縄キリスト教大学客員教授。「平和を求める退役軍人の会琉球・沖縄国際支部」(VFP-ROCK)代表。著作は『イデオロギーとしての英会話』『内なる外国』『ラデイカル・デモクラシー』『憲法は政府に対する命令である』『ガンジーの危険な憲法案』ほか多数。翻訳書に『もし世界が100人の村だったら』など。

この本は1970年代から現在にいたるまでダグさんがいろいろな媒体に書いたり学会で発表してきたりした論文・エッセイのコレクションです。各章の最後にはダグさん自身による「ミニ解題」があり、これを楽しみに読むことができます。「なぜ今この文を」と思う人はまずこの「解題」から読んでもいいのではないでしょうか。

この本を総括して一言でこれ!と形容するのは難しいが、著者はこう言います。
この本に収録した文章にはいろいろなテーマがあるが、共通点もある。「普通」のことを別の角度から見ると「不思議」に見える、という点だ。自分が生まれ育った文化の外に住んでいた人間によって書かれたせいか、「外」という共通テーマもある。(「まえがき」より)
ここは、日本出身だがいまのところの人生の4割、成人してからの半分以上の時間をカナダで生きてきた自分には共感できる部分です。

ダグラス・ラミスさんの文を読むたびに思うことは、どきっとして自分をふりかえらざるを得ないような言葉が散りばめられていることです。ごまかしを許さない。どこかでわかっている、見えているのに直面することを避けている、または言葉が見つからず表現できていないような真実をどん、と目の前に出してくるので読者は逃げられなくなります。また、ああやっと、あのもやもやが言葉になった!と胸のすく思いもするのです。そういう部分に線を引きながら読みました。

全12章のタイトルは、
アメリカを想像する――
◆イデオロギーとしての英会話 
日本を想像する――
◆『菊と刀』再考〈パートⅡ〉 
「外」を想像する――
◆影の学問、窓の学問
進歩を想像する――
◆イデオロギーとしてのアメリカ近代化論
戦争を放棄するⅠ――
◆ラディカルな日本国憲法――国家の権力から国民の権力へ
戦争を放棄するⅡ――
◆自衛隊はカンボジアに何をしに行ったか――司令官は語る
戦争を「放棄」する――
◆要石
戦争をするⅠ――
◆暴力国家
戦争をするⅡ――
◆イラクで考えたこと
自由を創立するⅠ――
◆ラディカルな民主主義
自由を創立するⅡ――
◆意見書「天皇制・君が代について」
戦争を放棄するⅢ――
◆想像しうる最小の軍隊――ガンジーのインド憲法私案と日本の平和憲法

マジメに冒頭から読む必要はなく、自分にとってピンと気になる章から読んでいけばいいのではないでしょうか。

私にとって一番心に残る章は最後のガンジーの章でした。12章のうち唯一、この本が日本語では初出ということです。これはダグさんも私も執筆や翻訳をしてきているオンライン英語誌『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』に2010年1月掲載された


の日本語訳です。

著者は前書きで、このガンジーの章が、「自由、平等、産業社会、差別、戦争と平和、日本国憲法、暴力国家」と、「それぞれのテーマの枠組みとなっている、植民地・被植民地の構造」という、この本に取り上げたテーマが出てくるのでこの本の結論となり得る章だとも言っています。

私が深く考えさせられたのはこの章で(この章だけでないですが)著者が論じている「交戦権」の問題です。日本国憲法9条2項において日本国に禁じられているこの「交戦権」は、「人殺しと見なされることなく兵士たちが殺人行為を行う権利」のことです。国家が軍隊を持って戦争となれば正当に人を殺すことができるなど当然、と思う人が多いかもしれませんがこれがなぜ当然なのでしょうか。

「交戦権」は「マックス・ウェーバーが『正当な暴力を行使する権利』と呼んだものの一つ(その他は警察権と司法権)」であるということです。「ウェーバーは正当な暴力を独占することこそ近代国家の決定的な特徴」だと考えました。

著者はこのような力をどうして私たちは国家に与えてしまっているのか、常識になってしまっているのかにたいして二つの前提を提供しており、第一は「正当な暴力を行使する権限を国家に与えれば、国家は私たち国民を守るためにその権限を行使するはずだ」、第二は、その国家が、「その国家自体の主権を守るためにその権限を行使するはずだ」ということです。著者はその両方を「思い込み」と言います。

この二つの「思い込み」=「仮説」が本当かどうか検証するのが20世紀であったと。20世紀のはじめに主権国家の数は55だったのが世紀の終わりには193になっていました。そして私たちが国家というものに正当の暴力を与えた結果がどうだったかというと、20世紀に国家というものが殺した人の数は2億人に上ったといいます(R・J・ラムルの統計)。その中で群を抜いて多かったのは兵士ではなく民間人でした。そして国家の殺りくの被害者の多数派はその国家にとっての外国人ではなく自国民だったということです。

「国家は最大の殺りく者であり、その犠牲者の多くは自国民なのである。」(283ページ)

その国の市民を守るために合法的に殺しの権利を与えた軍隊が実はその国の市民を殺す結果となっていたのです。

ガンジーは、本来暴力的な組織である国家とは、根源的に異なる政治体制を築くことを構想しました。

ガンジーは独立後の独自の憲法私案を創っており、その核心は、独立後その役割を果たし終えたインド国民会議は国家権力から手を引き、村々に戻るように提案しようとしていたことでした。

その案はガンジーの暗殺とともに消え去りました。インド政府は「誰に遠慮することもなく軍備を整え、『現実的な』政治手法に則って軍事力を行使することができた」のです。著者はこの章の「解題」でこのように書いています。
ガンジーについてのいろいろな本や論文を読むと、面白いことがわかった。ガンジーの憲法案は「知られていない」というよりも、多くの著述家が知っているが触れたくない、ということだった。ガンジーを、国の創立者、独立したインドの父として持ち上げるためには、その国の憲法をいやがったという事実は大きな邪魔だろう。だから、その困った事実からなるべく目をそらし、ガンジーの神話を作っている。
★★★★★

読者に、「普通」への驚きーーつまり、さまざまな気づきと、思考と行動への「窓」にいざなう一冊と思います。

@PeacePhilosophy

当ブログ関連投稿:

どうして誰も「交戦権」を語らないのか:ダグラス・ラミス


Wednesday, June 07, 2017

『バンクーバー新報』5月26日より:青山学院大学中野昌宏さんインタビュー(日本国憲法のルーツについて)An Interview with Professor Nakano Masahiro on the Formation of Japan's Post-War Constitution

カナダ・バンクーバー地元の日本語紙『バンクーバー新報』2017年5月26日号より許可を得て転載。バンク―バー9条の会、ピース・フィロソフィー・センター共催の、中野昌宏さん(青山学院大学教授)を迎えた「日本国憲法のルーツを学ぶシリーズ」最終回の第3回は「ハーバート・ノーマンと日本の近代化」7月8日(土)1時半からです。「ハーバート・ノーマンコレクション」を持つUBCのあるバンク―バーならではのトピック、参加ご希望の方はこの記事の末尾にある申し込み用メールアドレスにメールください。(会場は、参加申し込みをした人に直接案内します)Aoyama Gakuin University professor Nakano Masahiro, currently a visiting professor at UBC, will give a talk on E. Herbert Norman and his involvement with the birth of Japan's post-war constitution, at 1:30 PM, July 8. It will be in Japanese. For inquiry, email peacephilosophycentre@gmail.com.