To view articles in English only, click HERE. 日本語投稿のみを表示するにはここをクリック。点击此处观看中文稿件한국어 투고 Follow Twitter ツイッターは@PeacePhilosophy and Facebook ★投稿内に断り書きがない限り、当サイトの記事の転載は許可が必要です。peacephilosophycentre@gmail.com にメールか、このブログの右サイドバーにある Contact Us フォームで連絡ください。Re-posting from this blog requires permission unless otherwise specified. Please email peacephilosophycentre@gmail.com or use the Contact Us form in the right side-bar to contact us.

Thursday, June 08, 2017

「普通」への疑問と、思考の「窓」にいざなう新刊: 『ダグラス・ラミスの思想自選集』A New Collection of Essays by Douglas Lummis

萬書房から出たてほやほやの本、『ダグラス・ラミスの思想自選集 「普通」の不思議さ』を紹介します。


C・ダグラス・ラミス Charles Douglas Lummis
C・Douglas Lummis
1936年米国カリフォルニア州サンフランシスコ生まれ。1958-61年米海兵隊将校。その後、カリフォルニア大学バークレー本校で西洋政治思想を学び、米日両国でベトナム戦争反対運動に関わり、1972年博士号を取得。UCサンタクルーズ、西ワシントン州立大学、デイープスプリングズ大学、津田塾大学などで教える。現在、沖縄キリスト教大学客員教授。「平和を求める退役軍人の会琉球・沖縄国際支部」(VFP-ROCK)代表。著作は『イデオロギーとしての英会話』『内なる外国』『ラデイカル・デモクラシー』『憲法は政府に対する命令である』『ガンジーの危険な憲法案』ほか多数。翻訳書に『もし世界が100人の村だったら』など。

この本は1970年代から現在にいたるまでダグさんがいろいろな媒体に書いたり学会で発表してきたりした論文・エッセイのコレクションです。各章の最後にはダグさん自身による「ミニ解題」があり、これを楽しみに読むことができます。「なぜ今この文を」と思う人はまずこの「解題」から読んでもいいのではないでしょうか。

この本を総括して一言でこれ!と形容するのは難しいが、著者はこう言います。
この本に収録した文章にはいろいろなテーマがあるが、共通点もある。「普通」のことを別の角度から見ると「不思議」に見える、という点だ。自分が生まれ育った文化の外に住んでいた人間によって書かれたせいか、「外」という共通テーマもある。(「まえがき」より)
ここは、日本出身だがいまのところの人生の4割、成人してからの半分以上の時間をカナダで生きてきた自分には共感できる部分です。

ダグラス・ラミスさんの文を読むたびに思うことは、どきっとして自分をふりかえらざるを得ないような言葉が散りばめられていることです。ごまかしを許さない。どこかでわかっている、見えているのに直面することを避けている、または言葉が見つからず表現できていないような真実をどん、と目の前に出してくるので読者は逃げられなくなります。また、ああやっと、あのもやもやが言葉になった!と胸のすく思いもするのです。そういう部分に線を引きながら読みました。

全12章のタイトルは、
アメリカを想像する――
◆イデオロギーとしての英会話 
日本を想像する――
◆『菊と刀』再考〈パートⅡ〉 
「外」を想像する――
◆影の学問、窓の学問
進歩を想像する――
◆イデオロギーとしてのアメリカ近代化論
戦争を放棄するⅠ――
◆ラディカルな日本国憲法――国家の権力から国民の権力へ
戦争を放棄するⅡ――
◆自衛隊はカンボジアに何をしに行ったか――司令官は語る
戦争を「放棄」する――
◆要石
戦争をするⅠ――
◆暴力国家
戦争をするⅡ――
◆イラクで考えたこと
自由を創立するⅠ――
◆ラディカルな民主主義
自由を創立するⅡ――
◆意見書「天皇制・君が代について」
戦争を放棄するⅢ――
◆想像しうる最小の軍隊――ガンジーのインド憲法私案と日本の平和憲法

マジメに冒頭から読む必要はなく、自分にとってピンと気になる章から読んでいけばいいのではないでしょうか。

私にとって一番心に残る章は最後のガンジーの章でした。12章のうち唯一、この本が日本語では初出ということです。これはダグさんも私も執筆や翻訳をしてきているオンライン英語誌『アジア太平洋ジャーナル:ジャパンフォーカス』に2010年1月掲載された


の日本語訳です。

著者は前書きで、このガンジーの章が、「自由、平等、産業社会、差別、戦争と平和、日本国憲法、暴力国家」と、「それぞれのテーマの枠組みとなっている、植民地・被植民地の構造」という、この本に取り上げたテーマが出てくるのでこの本の結論となり得る章だとも言っています。

私が深く考えさせられたのはこの章で(この章だけでないですが)著者が論じている「交戦権」の問題です。日本国憲法9条2項において日本国に禁じられているこの「交戦権」は、「人殺しと見なされることなく兵士たちが殺人行為を行う権利」のことです。国家が軍隊を持って戦争となれば正当に人を殺すことができるなど当然、と思う人が多いかもしれませんがこれがなぜ当然なのでしょうか。

「交戦権」は「マックス・ウェーバーが『正当な暴力を行使する権利』と呼んだものの一つ(その他は警察権と司法権)」であるということです。「ウェーバーは正当な暴力を独占することこそ近代国家の決定的な特徴」だと考えました。

著者はこのような力をどうして私たちは国家に与えてしまっているのか、常識になってしまっているのかにたいして二つの前提を提供しており、第一は「正当な暴力を行使する権限を国家に与えれば、国家は私たち国民を守るためにその権限を行使するはずだ」、第二は、その国家が、「その国家自体の主権を守るためにその権限を行使するはずだ」ということです。著者はその両方を「思い込み」と言います。

この二つの「思い込み」=「仮説」が本当かどうか検証するのが20世紀であったと。20世紀のはじめに主権国家の数は55だったのが世紀の終わりには193になっていました。そして私たちが国家というものに正当の暴力を与えた結果がどうだったかというと、20世紀に国家というものが殺した人の数は2億人に上ったといいます(R・J・ラムルの統計)。その中で群を抜いて多かったのは兵士ではなく民間人でした。そして国家の殺りくの被害者の多数派はその国家にとっての外国人ではなく自国民だったということです。

「国家は最大の殺りく者であり、その犠牲者の多くは自国民なのである。」(283ページ)

その国の市民を守るために合法的に殺しの権利を与えた軍隊が実はその国の市民を殺す結果となっていたのです。

ガンジーは、本来暴力的な組織である国家とは、根源的に異なる政治体制を築くことを構想しました。

ガンジーは独立後の独自の憲法私案を創っており、その核心は、独立後その役割を果たし終えたインド国民会議は国家権力から手を引き、村々に戻るように提案しようとしていたことでした。

その案はガンジーの暗殺とともに消え去りました。インド政府は「誰に遠慮することもなく軍備を整え、『現実的な』政治手法に則って軍事力を行使することができた」のです。著者はこの章の「解題」でこのように書いています。
ガンジーについてのいろいろな本や論文を読むと、面白いことがわかった。ガンジーの憲法案は「知られていない」というよりも、多くの著述家が知っているが触れたくない、ということだった。ガンジーを、国の創立者、独立したインドの父として持ち上げるためには、その国の憲法をいやがったという事実は大きな邪魔だろう。だから、その困った事実からなるべく目をそらし、ガンジーの神話を作っている。
★★★★★

読者に、「普通」への驚きーーつまり、さまざまな気づきと、思考と行動への「窓」にいざなう一冊と思います。

@PeacePhilosophy

当ブログ関連投稿:

どうして誰も「交戦権」を語らないのか:ダグラス・ラミス


No comments:

Post a Comment